私の息子は自閉症、知的障がい、そして天使

ガイジン家族、障がい者家族、普通の生活

疲れたなあと感じる最近

最近、本当に疲れています。

職場では職員のひとりが異動になり、うちの事業所は人手不足となりました。

そうなると管理者の私は空いた穴をうめなければなりません。

忙しいのなんのって。

 

そのうえ、今の主人の仕事は午後から夜までの勤務のため帰りが遅くなります。

そうなるとバスはなくなり、私が駅までお迎えにいきます。

たまのお迎えはいいのですが、これが毎日となるとかなりきつい。

娘の塾のお迎えもあるので、夜遅くに2回も運転しなければなりません。

 

それからこの二人は食事をします。

となると、温めなおし、後片付けがあり、それから洗濯。

毎晩11時すぎます。

それでいて、朝は容赦なくやってきます。

5時に起床。

 

朝5時から夜11時まで、ゆっくりする時間もなく、動き回っていると、さすがに年齢には勝てません。

へとへとになります。

たまには朝7時まで寝てみたいと思っても、主人は週末は仕事です。

朝起きて朝食の支度があります。

 

愚痴ってもしかたないのですが、やはり眠たい。

いつになったらゆっくりできるようになるのかな。

ズッキーニブレッド

不思議なもので、息子の味覚がここ数か月で変わってきているのです。

小さなころは偏食の王様で、炭水化物しか食べない時期もありました。

少しずつ食べられるものも増えてきましたが、それでも小学生の頃は決まったものしか食べない子でした。

 

中学生になるとかなりいろいろ食べられるようになってきました。

 

そして、今、息子はなんでも食べる元気な子になりました。

 

その中で一番好きなものはママが焼くケーキです。

 

ここ最近、息子の喜ぶ顔が見たくて、毎週末ケーキを焼いているのです。

キャロットケーキ、レーズンバナナケーキ、はアッという間になくなりました。

 

今日はズッキーニがたくさん手に入ったので夏の風物詩ズッキーニブレッドを焼いてみました。

 

息子のうれしそうな顔。

「ああ、焼いてよかった」と思いました。

 

不思議なものですが、味覚や触覚が過敏で本当にプレーンな味の決まった食べ物しか食べなかったのに、ずいぶん緩和されるものなんですね。

特別になにかをしたわけではありません。

もしかすると、ずっと「いつかは食べてほしい」と執念深く出していたからかな。

 

でも。。。今日はちょっと作りすぎた。

喫茶店のランチ

私、カフェのランチというものに大変魅力を感じます。

まず、響きのいい言葉です。

 

今日、娘と一緒に喫茶店でランチをしました。

スターバックスなどのコーヒーショップに入ることはあっても、いわゆる喫茶店に入ったのは久しぶりのことで、娘とふたりでランチするのも久しぶりのこと。

 

この喫茶店には思い出があります。

いつもいくスーパーの近くにあり、いつも見ている喫茶店ですが、もう何年も入ったことがありませんでした。

最初に入ったのは、2010年の2月でした。

私たちがアメリカから日本に来たばかりの頃で、親子三人で実家に居候していました。

私がまだ抗がん剤治療を受けていた頃で、息子を療育センターに通わせ始めたころだったと思います。

 

その日は高校の同級生のあけちゃんと喫茶店で待ち合わせていました。娘はまだ保育園に空きがなく私が連れ歩いていました。

朝、息子を見送った後、雨が降る中、娘を連れて歩いたため、ズボンのすそはびしょびしょでした。

近くのスーパー2階にある衣料品店で娘のズボンを買い、急いで着替えさせて喫茶店に行きました。

あけちゃんはいました。

抗がん剤のせいで、指先が敏感で痛くて、冷たい物を飲食すると口の中が痛くて、寒い冬の雨は身に応えました。

あけちゃんと私はあったかいコーヒーを、娘はアップルジュースを頼みました。

モーニングサービスが3つ運ばれてきました。

厚切りトーストとゆで卵。

当時ゆで卵の白身が好きだった娘は大喜び。

「わーい、たまにょ(たまご)」とゆで卵に喜ぶ娘。

そうです、あの頃の私たちはビンボーでした。

実家に居候していたので住むところはありましたが、まさに居候でしたので、何も持っていませんでした。

食事も実家で食べさせてもらっていたので、アメリカにいたころのように好きなものばかりを自由にすることもできませんでした。

 

「ママのも食べていいよ」というと、

「白いのたまにょ(白い卵)たべゆ」と喜ぶ娘。

 

すると、そばの席にいた老婦人が「これもお食べなさい。私は卵はいらないから、お嬢ちゃんあげるね」と、ゆで卵をほいっと娘のお皿にのせてくれました。

私が遠慮したものの、その老婦人は「いいの、いいの。私は食べないから」と言うばかり。

娘はいただいたゆで卵をトントンとテーブルにぶつけていました。

 

あけちゃんと私は他愛もないおしゃべりをしました。

私は日本での生活もよくわからず、どこでなにを買えるのかをきいたりしました。

車も持っていませんでした。お金もそんなにありませんでした。

生きていることだけで必死でした。

 

今日、娘と喫茶店に入ると、店中は一組のお客さんがいるだけでガランとしていました。

私たちがあのとき座った席はそのままで、その横の席にお客さんがいました。

反対側に座ると、私たちはメニューをみました。

 

ボロネーゼとオレンジジュース、オムライスとオレンジジュース。

 

モーニングは今も変わらず「トーストとゆで卵」となっていました。

娘にあのときの話をすると、娘は笑って言いました。

「私って、そのとき一体いくつの卵の白身食べたの?」

 

自分の、ママの、あけちゃんの、老婦人の。。。4つかな。

 

「ママ、3歳の子に4つも卵食べさせたらだめだよ」

 

そうでした。

あのときの娘は今は私より大きくなっていました。

 

努力の天才

娘は今、中学三年生。

学校の成績は決して悪くない。というより、私の娘としては上出来。

私は基本、勉強たるもの楽しくなくてはならないと思っている。

だから、意味なく暗記するとか、追われるように勉強することは好きではない。

 

そんなわけのわからない持論を持っているから、当然楽しくないことはしない。

できないことはできない、今あることが運命だと思っているから、それはそれでしかたない。

しかし、娘はちがう。

「次のテストは絶対1位取りたい」と目標をたてると、全力で取り組む。

その取り組みたるもの尋常ではない。

それはまるで、アスリート。

人の見ていないところで練習を重ねるアスリートのような根性で勉強をしている。

 

小学校の頃、娘はいじめられた。

ガイジンだから手をつながない。

ガイジンだからアメリカ語を話す。

 

娘は自分が日本人と同じでないことに悔しがり、英語は話さない、日本の物しか使わない、アメリカからの物は嫌い、そんな子になってしまっていた。

 

英語を嫌っていた。

 

中学生になると、目標を持つことの意味を理解するようになり、運動は苦手、絵も苦手、歌も苦手な娘にとっての頃は勉強、その勉強を取り組んでみたら殊の外成果がみえてきた。

 

みんなと同じが一番

そう思って生きてきた娘は

一番になりたい

と強く思うようになった。

 

娘は生まれつきの天才ではない。

彼女は努力の人だ。

努力できることは実はすごい才能なんだと彼女をみていて思う。

 

娘は生きている中で天才になった。

それは、努力することができる天才。

 

いじめられてくやしがって、自分のアイデンティティーを失いかけた娘は今、

生まれたころから我が家でとびかっている英語が学年1位となり、

毎週末アメリカのおばあちゃんに電話している。

 

天才は努力した結果についてくるのかもしれない。

 

仕事

うちの息子のように知的障害のある自閉症の子が大人になって仕事に就くことは本当に大変。

一般企業に就労するのは難しいとしたら福祉での就労支援を受けることになるのでしょう。

 

障がい者だから、福祉だからと、いって甘えるのは私は息子に臨んでいない。

息子は社会で生きる人であってほしい。

 

息子が小学4年生だったかな、初めて彼に仕事を与えたのは。

 

お手伝いはいつまでもママの仕事の一部でしかない。

あなたがすることはあなたが完結させてほしい。

ママが終わらせなくていい仕事をしてほしい。

 

たかだか10歳の息子にこんなことを言った。

 

息子の仕事は朝食後自分の食器を洗い、テーブルを拭いてクロスをかけることにした。

もちろん、テーブルを拭いたお雑巾は自分でゆすぐ。

 

仕事は思いつきでやるものでもなければ、気分でさぼるものでもありません。

仕事は毎日やることです。

私は毎日息子にそう言ってきた。

 

お手伝いしてくれるのはママはうれしい。

でも、私は息子が社会に生きる大人になったとき、しっかりと自分の役目を果たせられる社会人であるように願う。

 

習得に時間のかかる息子だから、子供のころから

仕事をすることを仕事とした。

 

今、15歳。特別支援学校高等部1年生。

毎朝仕事をしてから登校している。

いつか社会で立派に生きていかれるように、仕事する息子の背中をみつめている。

障がい者福祉

私は日本に戻ってからは、最初の数年は英語教室で英語を教えていたのですが、ここ7年ほどは障がい者支援の仕事をしています。

息子が自閉症で重度知的障害があり、日本に戻ったばかりの頃は、私は日本の福祉には疎く言われるがまま受け入れるしかありませんでした。

困っていても失礼なことを言われたこともあります。相談しようとしてもあまりに威圧的に対応されて逃げるように場を離れたこともありました。

 

だから、私が無知だからいけないんだ、私が知識と人脈を身につけ、息子の行く道を照らしていこう、と思ったことが、福祉への始まりでした。

 

支援員でありながら、事業所立ち上げには6回も携わる機会に恵まれました。

 

今思うこと。

障がい者をお金儲けのコマのように扱う事業所があまりに多すぎる。

息子もいつかはこのコマにされるのかなあ。。。

 

そう思うと、いつかは自分で事業所を立ち上げたいと考えます。

それは事業所もそうだし、療育士と障がい者・児のマッチングもそう。

なにか、本当に必要な人に必要な機会を提供できることを起こそうと思っています。

 

お墓参りはいつまでも行きたい

今日はお天気もよく、息子と久しぶりに父のお墓参りに行ってきました。

父は一年半前に亡くなりました。

末期がんであっという間に逝ってしまいました。

以来、私と息子は「おじいちゃんのお墓参り」が楽しみになりました。

多いときは毎週日曜日にはお墓に行っていました。

途中、道の駅でお花を買って、ついでにランチを食べるのも楽しみです。

息子は決まってかつ丼です。

自閉症の彼は決まったことが心地よく、お花を買ったらかつ丼を食べて、それからお墓参りに行くことがルートになっております。

 

健常な子であれば、大人になったら一人で生きていくようになり、好きなところへ行き、好きなものを食べる。

でも、息子はそれがひとりでできるようになるだろうか。

いつか、誰かのお世話で生きていくようになったとき、息子は今みたいにこんなふうに好きなかつ丼を食べてお墓参りに行けるのかな。

私はいつまでこの子とこういうことしていられるのかな。

 

そう思ったときとてもさみしく、そして、今の一秒一秒がとても大事に思えました。

 

私が年をとったとき、娘はお墓参りに連れて行ってくれるかもしれません。

でも、息子は私が連れて行かれなくなったときからお墓参りに行けなくなるかもしれません。

 

息子とこんな健康的な生活を送れることが一日でも長く続いてほしい。

そして、いつまでも一緒にお墓参りに行きたいな、と思いました。